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YanagawachoStory 柳川町物語
   
  落ち着きのある大人のための空間
 
 

 柳川町が今のように飲食店街となる前は【東京吉原】のような遊郭場であり、さらにその前は湿地帯だったという記録が残っております。様々な時代を経て、今の柳川町の形となりました。
 当店は今年で37年目となりますが、柳川町誕生の歴史から考えれば、まだまだ若輩者という存在でございます。街は生きもの、これから柳川町を魅力ある街にしていくため、今この街に商う私たちが約140年続く柳川町の歴史を知ることが大事なのではと感じました。
 柳川町に遊びにいらっしゃる県内外のお客様やそこで働く者たち、また住民の方々、すべての皆さんがここ「花街柳川町」をこれからも愛し、他のどこにもない価値ある場所文化として認知していただけたら幸いでございます。では、柳川町ストーリーをお楽しみ下さいませ。

 このコーナーの設置にあたって、『柳川町花街物語』著者の はせちゅう様に大変お世話になっております。あらめて心より感謝申し上げます。

 

   
柳川町物語イメージ
 
 
Stories
   
第2話 高崎の宿屋と飯盛女
   
 

話しをちょっと戻して、高崎の誕生の頃です。
 慶長3(1598)年、8月15日に井伊直政が箕輪から和田に移り、和田の地を高崎と改めました。1600年には関ヶ原の合戦があり、以後、高崎は酒井家、戸田家、松平家、安藤家を経て松平家の大河内輝貞が享保2(1717)年2月11日5万2000石にて封ぜられ、10代の輝声まで、実に170余年の治政でありました。
 高崎の地は江戸における北の守りであり、また主要道路の中山道の宿駅として、交通の要地を占めておりました。また代々、江戸幕府の役職につく藩主が多く、諸大名の模範となるべき政治を行うことが求められて、自藩の風紀取り締まりに特別に熱心であったと思われます。中山道の宿駅であったので、宿場の飯盛女についても厳しく取り締まってきた経緯がございました。
 安永年間(1772)、幕府では全国の旅籠屋1軒に2名の飯盛女を置くことを許可しましたが、高崎宿は、本町に旅籠屋伊左衛門以下31軒と新町甚八以下5軒の計36件しか宿屋がなかったそうです。近郷からの客が増して賑わいを見せると風紀が乱れ、3人、5人と飯盛女を置くようになったそうです。そのため、ほどなく高崎宿の飯盛女を禁止にしてしまいました。
 寛政12(1800)年、文政12(1829)年に相次いで高崎に大火があったそうです。本町から出火し、城下1460軒焼失、相次いで城下羅漢町から出火、580軒焼失、さらに四ツ屋町から出火、同じく580軒が焼失してしまいました。
 こうした不幸によって、高崎宿の復興の為、当時の経営者たちは飯盛女を置くことを高崎藩に請願し再許可をしましたが、またまた旅籠屋の自粛が足らず3年目に飯盛女を禁止が出て、1868年まで許可にならなかったと記録されております。
 そのような時代の中で、締め出されてしまった飯盛女たちは田中祭八なる人物が借りた湿地帯へ自然と集まることとなり、遊女屋の発生となったそうでございます。

出典:はせちゅう著『柳川町花街物語』(文芸社

   
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