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YanagawachoStory 柳川町物語
   
  落ち着きのある大人のための空間
 
 

 柳川町が今のように飲食店街となる前は【東京吉原】のような遊郭場であり、さらにその前は湿地帯だったという記録が残っております。様々な時代を経て、今の柳川町の形となりました。
 当店は今年で37年目となりますが、柳川町誕生の歴史から考えれば、まだまだ若輩者という存在でございます。街は生きもの、これから柳川町を魅力ある街にしていくため、今この街に商う私たちが約140年続く柳川町の歴史を知ることが大事なのではと感じました。
 柳川町に遊びにいらっしゃる県内外のお客様やそこで働く者たち、また住民の方々、すべての皆さんがここ「花街柳川町」をこれからも愛し、他のどこにもない価値ある場所文化として認知していただけたら幸いでございます。では、柳川町ストーリーをお楽しみ下さいませ。

 このコーナーの設置にあたって、『柳川町花街物語』著者の はせちゅう様に大変お世話になっております。あらめて心より感謝申し上げます。

 

   
柳川町物語イメージ
 
 
Stories
   
第3話 柳川町の芸者
   
 

 さて、高崎の芸者の発生については、一説によると天保8(1818)年、新町(現在のあら町)に穀屋のお仲という女性が三味線を持って客席に出たのが第一号であると伝わっています。その頃、小唄などを教える稽古場があり、芸達者な女性たちが江戸あたりから流れてきて長唄、常磐津、小唄の指南をしていたようです。
 その頃、高崎藩は風紀取締りによって芸者が禁止されていましたが、春をひさぐことが目的ではなかったので、大目に見ていたのではないかといわれております。
 ところで、大河内家による風紀取締りは大変厳しく、芝居や相撲興行、土地の遊芸、踊りなども禁止されていました。地域色豊かな高崎の民芸が残されていないのは、それによる影響が大きいともいわれます。
 話を戻して。文久2(1855)年には、御伝馬事件が起こり、これは高崎花柳界の芽吹きとなりました。慶応年間(1867)には芸で身を立てる女性が160名にまでなり、客席は賑やかであったそうです。
明治2(1869)年、芝居興行も許可され、花柳界というまでではないにしろ、にわかに活気づいてきたようです。その頃、清水の寅さんという人物が、江戸から芸妓3人を連れて、今の嘉多町と本町1丁目との小路の湯屋横町に芸者屋の看板を出したのが商売としての芸者置屋の最初だったそうです。この芸者たちが評判となって、これに続いて芸者置屋が次々に誕生し、芸妓も40名以上になりました。
 岡源、魚仲、三宝館、春霞館、清隆館、清香庵という本格的な料亭もできて、明治9(1876)年には芸妓取締所を設け、玉代も決められたといいます。そこへ高崎連隊ができたり、鉄道が敷かれたりして、文明開化はこの芸者界にも大きな発展をもたらしていきました。

出典:はせちゅう著『柳川町花街物語』(文芸社)

   
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