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YanagawachoStory 柳川町物語
   
  落ち着きのある大人のための空間
 
 

 柳川町が今のように飲食店街となる前は【東京吉原】のような遊郭場であり、さらにその前は湿地帯だったという記録が残っております。様々な時代を経て、今の柳川町の形となりました。
 当店は今年で37年目となりますが、柳川町誕生の歴史から考えれば、まだまだ若輩者という存在でございます。街は生きもの、これから柳川町を魅力ある街にしていくため、今この街に商う私たちが約140年続く柳川町の歴史を知ることが大事なのではと感じました。
 柳川町に遊びにいらっしゃる県内外のお客様やそこで働く者たち、また住民の方々、すべての皆さんがここ「花街柳川町」をこれからも愛し、他のどこにもない価値ある場所文化として認知していただけたら幸いでございます。では、柳川町ストーリーをお楽しみ下さいませ。

 このコーナーの設置にあたって、『柳川町花街物語』著者の はせちゅう様に大変お世話になっております。あらめて心より感謝申し上げます。

 

   
柳川町物語イメージ
 
 
Stories
   
第6話 当時芸者だったT姐さんのお話
   
 

「私は7歳の頃父に連れられて高崎の芸者置屋の養女に入り、中央小学校を卒業して半玉の修行に入り15歳で半玉になって、17歳で一人前になりました。半玉になる前、当時宇喜代料亭が営業していた『喫茶店宇喜代パーラー』に勤めていたことがありました。
 昭和15、6年頃から17、18年頃の戦争が烈しくなる前の頃で、毎日軍人さんのお座敷で忙しく、若手の芸者であったので、軍人さんに可愛がられ、もててもてて楽しい日々でした。ほとんどみんな戦死してしまった軍人さんを想い、慰問袋を作って送ったり、寅年生まれであったので、縁起のよい芸者だというので、千人針の注文が多くありました。十五連隊に慰問にいったりした軍旗祭のことなど思い出してくる。若い子たちは間違いを起こすからだめだということで、年配のお姐さん達が7、8人と五郎さん、すず子さん達と組合長さんがついて「高崎芸妓組合慰問団」を結成して、満洲へ慰問に行きました。涙、涙で送ったことを思い出します。満ソ国境近くまで出かけて、往複の船では怖い思いをしながら部隊の慰問にも行きました。『八木節』や『赤城の子守唄』などの出し物をしたんですよ。
 また宇喜代料亭が市民会議場になっていた、夜は着物に着替えてお座敷に出て仕事をしていました。軍隊の保酒から食べ物や飲み物が持ってこられて、お客様は将校さんがほとんど。たばこは『誉れ』で、キャラメルなどもありました。毎月「愛馬の日」というのがあって、将校さん達が馬に乗って柳通りを行進してきて、その列に私たちが花束を渡して大騒ぎして迎えていましたよ。何軒かの芸者の置屋さんの家に将校さんに部屋を貸していて、朝になると部下が馬をひいて迎えに来ていました。(つづく)

   
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